矢野博丈

矢野博丈

矢野博丈は、100円SHOPダイソーを運営する企業・大創産業の創業者です。今や世界中に店舗を持つダイソーは、100円ショップの草分け的存在であり、業界ナンバー1の売り上げを誇る大企業となっています。にも関わらず矢野社長は、「ダイソーはいつか潰れる」「セリアには店でも商品でも負けた」「わしは劣化した」など、数々のネガティブな発言で有名です。いつか追い抜かれるかもしれないという恐怖心を常にもち、このままではだめだと努力を辞めない姿勢が、彼の成功の秘訣だと言われています。

プロフィール

1943年4月19日生まれ。広島県東広島市福富町(旧広島県賀茂郡福富町上戸野)出身。父親は広島で高額所得者の常連となるほどの人気の医師で、兄弟たちは国立大学医学部に進学した医業一家に育ちました。しかし、自身は私立大学の2部(夜間部)に進学しました。1967年3月に中央大学理工学部二部土木工学科を卒業し、工学士の資格を取得しました。旧名は栗原五郎なのですが、五男として生まれたことに由来するこの名前を、「ばかにされやすい」として好まず、学生結婚する際に現在の「博丈」に改名しました。姓も「クリハラ」という4文字より、妻の「ヤノ」の方が商売する際に覚えてもらいやすいと考え、「矢野」としました。妻の実家がハマチの養殖業を営んでいたため、その事業を継ぎますが、3年で倒産させてしまい、700万の借金を負います。夜逃げ同然で逃げ出し、その後はセールスマン、ちり紙交換、ボウリング場勤務など、9回も転職を重ねます。

移動販売の「矢野商店」

その後の1972年、雑貨をトラックで移動販売する「矢野商店」を創業しました。移動販売とはいわゆる「バッタ屋」と呼ばれる販売手法で、倒産した企業や資金繰りが苦しくなった起業の在庫品を格安価格で買い取り、安値で売る商売でした。この際、値札の貼り換えや会計の計算が面倒なことから、すべての商品を100円に値段設定しました。これが後の「100円SHOPダイソー」の始まりでした。この移動販売を、スーパーの店頭や催事場、公民館前の空き地などで商品の陳列、補充、会計までを一人で行い会場を移動しながらこれを続けました。しかし、業務が波に乗り始めた頃、商品の保管倉庫が火事になり、自宅も半焼するという不幸に見舞われてしまいます。大切な商売道具が無くなってしまったばかりか、警察には自作自演ではないかと疑われたそうですが、保険を掛けていなかったため、その疑いは無事に晴れました。1970年代になると、オイルショックなどで同業の仲間が次々と辞めていきますが、矢野は「自分は能力がないから」という理由でこの仕事を続けていました。1977年に「大創産業」として法人化。この頃大創産業は、ダイエーに6割の商品を卸していたのですが、あるとき中内功オーナーから「催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」と言われてしまいます。そこで矢野は、どうしたら会社が潰れなくて済むかと考え、ダイエーの客が流れる別のスーパーマーケットのオーナーからテナントでの出店を誘われたこともあり、そこに100円ショップの店舗を作りました。これが常設店舗による今日の100円ショップの形態の始まりでした。

「ダイソー」の展開

1987年に矢野は、「100円SHOPダイソー」の展開に着手します。1991年に最初の直営店を香川県高松市の丸亀町商店街に出店し、チェーン展開を本格化させました。100円ショップはバブルが弾け、長期不況に突入した1990年代後半から急速に売り上げを伸ばし始めます。また、同業他社の参入もあり、業界が活性化し、店舗網が全国に広がって新しい小売業として認知されるようになりました。マスメディアでも度々取り上げられるようになり、大創産業も急成長していきます。2007年3月期には、国内2400店舗、海外400店舗、売上高3300億円となり、100円ショップ業界ではトップ企業となりました。


大創産業について

創業当時、矢野は「会社の規模はまだまだ小さいけど、名前だけは大きな物にしよう」という意気込みから、「大きく創る」を「大創」とし、これを社名としました。元々はスーパーマーケットなどの駐車場で移動販売する形式だったのですが、テナント形式の店舗にすることで顧客がいつでも来店して買い物でき、さらに商品に問題があった場合に店舗にクレームを入れやすく、信頼されやすいと考えて、現在の常設店舗の形を取るようになりました。バブル崩壊後の平成不況時代に、消費者の購買意欲が著しく低下し、安価な商品を求める当時の消費者のニーズに見事にこたえる形となった大創産業は急成長を遂げます。また、生活に関わる雑貨品を中心に、多岐にわたるジャンルの商品を陳列することによって、「100円ショップ=多数のジャンルの商品がある」とのイメージを不可することにもなりました。矢野はこれを「多くの商品の中から宝探しをするような感覚」と表現しています。100円という安価の魅力の他に、一度の来店で様々なジャンルの雑貨を購入できる利便性が、来店者数増加・売上拡大の要因となったのでした。また、積極的な出店を展開し、豊富な商品の品揃えの中で100円均一というスタイルが、近所の評判やメディアを通じて知名度を一気にあげ、ダイソーは全国区レベルの小売業へと成長しました。

「高額商品」の販売

バブル崩壊後の平成不況末期ごろからは、「高額商品」という呼称で100円以上の商品の販売も行っています。当初は150円や200円などの、従来の100円商品に対象の付加価値を加えた程度の商品が多く、100円ショップの概念を打ち壊して批判を受けたり疑問を抱かれる不安材料があったものの、100円ショップブームが終焉して経営不振になることを懸念したため、脱・100円ショップ路線を模索する形で実施に踏み切りました。結果的には極端な来店者数の減少を招くことなく、豊富な商品ラインナップにより来店する客が多いことを機軸にして、高額商品を自然な形で定着することに成功しました。


矢野博丈の名言

矢野はいわゆる経済団体に参加しておらず、経済誌などのインタビューもほとんど受けないため、マスメディアにあまり登場することがないのですが、たまにインタビューを受けると出てくる成功者らしくないネガティブな発言が面白いと話題になっています。以下にその代表的な例を挙げています。それを見ると分かりますが、彼の発言にはいつか潰れるかもしれないという「恐怖心」がにじみ出ています。しかし、その恐怖心がダイソーが成長し続ける理由であり、常にトップを走る企業を牽引する矢野の強さなのではないかと思います。

自分自身について

私はどうしようもないだたのオッサンです。

私自身は最近、本当に劣化が激しいんです。

取材でもあまり話さないようにしている。

わし自身、何もないんですよ、中身が。

私はインターネットも分からないし、時代遅れな人間ですから。

昔はそれなりの自身というか、強さがありましたが、最近はあまり自身がなくなった。

僕の考え方は、過去の積み重ねからきた理論なので、今の世の中では全く通用しない。

商売について

お客様はよう分らん。近年は、お客様は本当に変わられた。

パソコンはようできんけえ、分析はしない。

6年ぐらい前まで「ダイソーはつぶれる」という確信をもっていました。

そもそもダイソーなんて底の浅い商売ですから。

昔は社員を怒ることができなかった。
つぶれる会社に勤めてくれる社員を怒ることができるはずがない。

やってきたことがいいか悪いかは、ダイソーが潰れるときにならんとわかりません。

お客様にはすぐ飽きられるものです。それを考えると恐くて眠れなかった。

セリアには店でも商品でも負けた。

この前みずほ銀行の頭取とメシをご一緒した時、
「これからうちもどうなるか分かりません。ご迷惑をかけるかもしれません」
と伝えた。

イトーヨーカ堂の会長に自社商品を見せたらものすごい怒られた。
「こんなもの作ってたら後3年で潰れるぞ、商品に魂を込めろ」と。

新しい店舗は社員たちが決めて作り上げました。
私にはとても、こんな店づくりはできません。

急成長してきたセリアや、キャンドゥのおかげで「潰れるかもしれない」と思えた。
その危機感があったから持ち直すことができた。